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自己紹介:仕事・育児・介護に疲れた私が「在宅ワーク」という道を見つけるまで

はじめまして。このみです。

このサイトをご覧くださり、ありがとうございます。

私は過去に、介護と育児と仕事を同時並行で行い、とても疲れ果てていました。

今は介護が終わり、時間と精神的に余裕ができ、ふと自分の生活を振り返った時に、
会社に縛られている時間が長いなと思うようになりました。

そんな時にみつけたのが在宅ワークという働き方です。

在宅ワークを叶えるために学ぶうちに、自分が介護と子育てと仕事で疲弊していた時に
この働き方を知りたかったと思うようになりました。

本記事では私の生い立ちから、仕事への向き合い方、そして在宅ワークを目指すようになった過程を
お伝えしていきます。

基本情報

このみ
年齢:40代後半
家族:高校生と小学生の子供と夫の4人暮らし
仕事:会社員+副業
住まい:東京都
エネルギー源:チョコレート
リラックス法:マインドフルネス、寝ること
リフレッシュ法:普段と違う新しいことを体験する、行ったことのない店、場所に行く

4人姉妹の末っ子

私は、4人姉妹の末っ子として生まれました。
1番上の姉とは13歳違い、すぐ上の姉とも9歳離れていました。

すぐ上の姉は重度の障がい者でした。

1歳児の赤ちゃんが体が大きくなった感じで、言葉を話すことも歩くこともできません。
意思疎通をとることは全くできず、いつも指をあごに当て空(くう)を眺めていました。

もちろんトイレも自分ではできず、常にオムツでした。

両親は共働きで、母は中学校の教師。

周りでは「障がいを持つ子がいるのに働くなんて」と言われていたようですが、
母は教師という仕事に使命を持っていました。

さらに私が生まれたことで、姉妹全員をちゃんと大学まで出させたい、
自分が死んでから障がいを持つ姉が不自由なく暮らせる生活費を蓄えたい、
という考えもあったと思います。

常に動いていないと落ち着かない母には、家で専業主婦をすることは
明らかに向いていませんでした。

母はしんどいことも多かったと思いますが、私たち子供の前ではできる限り
明るくふるまっていました。

父も昔の人にしては育児に協力的で、母が働くことにも理解がありました。

父、他の姉二人も家族全員が家事や障がいを持つ姉の世話を分担し、
家族で支えあうのが当たり前でした。

私は、母が働いている中学校の隣の保育園に通っていました。

母の勤め先から近いとは言っても、お迎えはだいたい最後から2番目、
もちろん最後になることもありました。

淋しかったと言えば淋しかったのですが、生まれた時からそういう生活だったので、
あまり不満に思ったことはありませんでした。

むしろ、社会のため、他人のために身を粉にして働いている母親を誇りに思っていました

カギっ子デビュー

私は小学校に入学すると、放課後は学童に通いました。

学童が嫌になり通わなくなると、当然カギっ子になりました。

母の帰りはだいたい6時前後、それより早い時もあれば、トラブルが起こり
遅くなる時は8時や9時になることもありました。

家に帰ってからも、テストの採点に生徒の提出物のチェック。
あまり母に遊んでもらった記憶はありません。

さらに母の趣味は茶道。

若い頃から続けており、育児のため一時辞めていたのですが、
私が小学生になる頃に復帰。

週1のお稽古に、年に数回行われる休日のお茶会と、精力的に活動していました。

茶道は母にとって、忙しい毎日の中で自分を取り戻せる時間だったのだと思います。

「家族のために働くのが当たり前」な家庭だったので、小学生の私もご飯を炊いたり、
洗濯物を取り込んで片づけるお手伝いをしていました。

私が4年生の時、障がいを持つ姉が病気をしました。

姉は言葉が話せないので、病気がみつかるまでに時間がかかりました。

自分で病状を話せないので、検査をしてもなかなか病気が見つからず、
病院をたらい回しにされました。

そんな中で、ある病院で胃潰瘍が見つかります。

その時は幸い夏休みだったので、姉はしばらく入院し、2学期にはまた養護学校に戻りました。

姉は養護学校の高等部を卒業後、病気をしたこともあり、
病院付属の障がい者施設に入ることになりました。

姉がその施設に入る日、私は母と二人で施設まで姉を送り届けました。

その時の母の、後ろ髪をひかれるような顔を今でも覚えています。

涙目で「これでいいんだよね」と何度も何度も自分に言い聞かせていました。

母にしてみたら、自分が仕事を辞めて家で姉をみるという選択肢もあったはず。

しかし仕事や自分のやりがいを諦めきれず、また将来の経済的不安から
働くということを選択したのだと思います。

そんな母の背中を見て育った私は、
「女性も好きな仕事をして、好きなように生きられる」
「仕事は何をおいても頑張るもの、責任を全うするもの」
と思うようになりました。

家から火が消える

私は地元の中学に進学しました。

母が中学校の教師だったこともあり、また姉が施設に入ったことで母の関心が
私に向くようになり、その頃母に成績のことでよく怒られていました。

家にいると母に叱られてばかりなので、寄り道をして帰るようになりました。

とうとう母が音を上げ、中学1年の2月から塾に通うことになります。

塾では先生がちょっとしたことでもほめてくれ、私の成績はうなぎのぼりでした。

1年で偏差値は10上がり、高校は県内トップの女子高に入りました。

高校時代は全国大会常連校の部活に入り、高校生活を満喫していました。

そんな高校1年の冬、すぐ上の障がいを持つ姉が亡くなりました。

姉は施設に入ってからしばらくは元気にしていましたが、
徐々に状態が悪くなっていました。

娘に先立たれた両親の落ち込みようは言うまでもありません。
言葉通り、家から火が消えたようでした。

例え寝たきりでも、両親にとっては生きていてくれるだけで良かったのです。

そんな悲しい出来事があった母でしたが、定年まで中学の教師として勤め上げ、
定年後も後進の教師の指導にあたりました。

姉はキャリアウーマン

13歳離れた1番上の姉は、地元の中学で常に1番を取るほど頭がよく、
学級委員や生徒会役員を自らやるような人で、近所では「神童」と呼ばれていました。

大学卒業後、貿易会社に就職し、年に数回、海外に出張に行くキャリアウーマンでした。

私が小学校6年生の時に結婚し、子供が生まれてもそれは変わりませんでした。

実家の近くに住んでいたこともあり、私の両親と旦那さんの協力で仕事を続けていました。

姉は2人の男の子を育てていましたが、下の子が3歳の頃から、また海外出張を再開します。

姉が出張に行っている間、実家で子供を預かることが多かったのですが、
姉の子供が寂しそうにしていたり、ママがいつまた出張でいなくなるのではないかと
ビクビクしている甥っ子の様子を目の当たりにしました。

また、甥っ子が火傷をしたことがありました。

姉が帰ってくるまで実家で預かっている間の出来事で、母と病院に付添い、
高校生なのに母親と間違えられたこともありました。

私はこのような甥っ子の様子を見ているうちに、子供に寂しい思いをさせたり、
子供が不安な時にそばにいられないのは
嫌だなと思うようになりました。

こうして母と姉という仕事にガムシャラな二人の後ろ姿を見てきて、

「仕事は何をおいても優先するものだ」
「仕事で多少家族が犠牲になるのは仕方ない」
「女性でも男性と肩を並べて働ける」

と思う一方、

「私はそこまで家族を犠牲にして働きたくないな」

と思うようになりました。

ポンコツデザイナー

私は四大を卒業後、企業の広報誌を制作している会社に就職しました。

最初は編集の仕事を志望していたのですが、入社後、配属されたのは
制作を担う部署でした。

もともと物を作るのが好きだった私は、ページ物のレイアウトや制作をすることに
夢中になりました。

DTPエキスパートという資格を取り、ちょうどその頃、新しい仕事が取れたということで、
急きょグラフィック・デザイン部に異動になりました。

それまでモノクロの物しか制作してこなかった私には、カラーのお仕事は憧れで
嬉しかったのですが、そこで大きな壁にぶつかります。

資格を取ったとはいえ、それは技術的な問題で、デザインを勉強したわけではなかったので、
どうやって色を選んだらいいのか、どうやって人の視線を誘導したらいいのか、
全くわかりませんでした。

そのため自分の作るものは、どこか落ち着かない、あか抜けないものばかりでした。

自分で本を読んだり、時には自分の作ったものに上司からアドバイスをもらって
勉強をしましたが、いつまでたっても自分に自信がつきませんでした。

しかし物を制作する仕事は自分には向いていて、自分のデザイン力にもがきながら、
もうかれこれ20年以上続けています。

結婚~妊娠と同時に介護が始まる

プライベートでは結婚をし、31歳の時に第1子を妊娠しました。

第1子を妊娠中、母が病気になり、その後2か月足らずで母は亡くなりました。

その頃父は足が弱っていて、出掛けるのも母の付き添いがないと
出掛けられない状態でした。

そのため、母が亡くなると同時に父の介護が始まりました

父はパーキンソン病のような症状があり、歩けなくなる他に、1日に数回、
30秒から長い時で1分ぐらい体が硬直する発作がありました。

硬直が起きると、自分の意志では体を動かすことができず、
硬直の反動で物を倒すこともあり危険でした。

頭はとてもしっかりしていて、施設に入ることやデイサービスに通うことは
かたくなに拒否していました。

そのため、母の死後も今までどおり家で過ごすことに。

姉2人は実家から10分ほどの所に住んでいたのですが、2人とも仕事をしていたため、
平日昼間は介護ヘルパーさんに来てもらうことになりました。

「後でもめるのは嫌だから、平等にやりましょう」という姉の発案の元、
休日は3人で父の世話を回すことになりました。

私は実家から1時間強離れた場所に住んでおり、出産後間もなかったので、
1カ月に1回休日に泊まりに行って、父の世話や実家の家事をすることになりました。

仕事×育児×介護の3重苦

そうして、仕事×育児×月1介護生活が始まりました。

私の勤める会社は、勤務時間が9~18時、月に1回程度土曜出勤がありました。

しかも人員減により仕事はいつもカツカツで、有休を取る前日には
他の人に迷惑をかけないように残業をしたりもしていました。

子供の急な発熱や学校関係の行事で休みを取らなければならないことも多く、
毎年有給の日数はギリギリ。

第1子を出産してから5年後、2人目の子供を産みました。

朝は子どもにご飯を食べさせ送り出し、電車に揺られて会社へ。
夜は19時半まで預かってくれる保育園に滑り込みで子どもたちを迎えに行き、
子供の「ママー、ママー」という言葉を無視して、無言で夕飯を作る。
やっとのことで夕飯を片付け、子どもをお風呂に入れ、寝かしつけ…。

その頃には自分もグッタリ。
洗濯物や郵便物が山積みになり、家の中は荒れ果てていました。

それは理想とはかけ離れた生活でした。

自分では家族との時間を大切にするために、母のように責任の重い仕事ではなく、
姉のように出張の多い仕事ではない仕事を選んだつもりでした。

母と姉の働き方を見て
「そこまで家族を犠牲にして働きたくない」と思っていたにも関わらず、
結局家族が犠牲になっていました。

 

父親の状態も、徐々に悪くなっていきました。
やがて歩けなくなり、トイレの失敗も増えていきました。

ポータブルトイレの処理や、汚れた寝具や衣類の洗濯…。
自分の子どもの物ならともかく、とても気がめいりました。

「仕事×育児×介護」の生活は想像以上に大変で、精神的にもギリギリ

いつもタスクに追われ、イライラしたり、卑屈な気持ちになっていました。
今思えば少しうつ気味だったと思います。

その生活がキツすぎて「転職したい…」と思ったこともありました。

しかし余裕も気力もなく、断念。

気づけば、ただ毎日をこなすだけの生活になっていました。

そんな生活が15年続きました。

父はおととしの夏、直前まで自分の家でヘルパーさんや家族の世話になり、
亡くなりました。

フリーランスへの挑戦

介護が終わり、精神的にも時間的にもゆとりができ、ふと自分の生活を振り返りました。

「会社に縛られる時間が長いな」
「もっと自分を大事にして生きたい」
「今まで家族を犠牲にしてきた分、家族との時間を大切にしたい」

と思うようになりました。

そう思っていた時にみつけたのが、在宅ワークを教えるオンラインスクールでした。

✓子どもとの時間を大切にしながら働ける
✓会社に縛られず、好きな時間・場所で働ける
✓今までの仕事で培ったデザイン力も活かせる

それは私にとって理想の働き方でした。

私は早速スクールに入会し、学んでいくうちに

「介護と育児と仕事で疲れ果てていた時に、この働き方を知りたかった!」

と強く思うようになりました。

私は現在、本業で培ったデザインとスクールで学んでいるWEBマーケティングで、
副業をしています。

フリーランスへの道はまだ半ばですが、理想の働き方を手に入れるため
日々学習に努めています。

このブログでは過去の私と同じように、今、働き方に悩んでいるあなたに、
在宅ワークという選択肢があることを伝えたい。

そして、あなたにも、自分らしい生き方を見つけてほしい。

このサイトが、あなたの新しい一歩を後押しできたら嬉しいです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!